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2012/10/28

短歌における〈私〉、責任、倫理の問題――「短歌研究」2012年11月号という、放送事故――(2)

   2.抹消記号としての、匿名としての〈私〉――斉藤斎藤というフリーペーパー


 次に、斉藤作品について述べる。

 この作品は、一読しただけでは単に原子力エネルギーに対する冷やかしのようにしか見えない。しかし、ここには数多くの仕掛けが施されており、一筋縄ではいかない。この際なので、最初は歌の「内容」以前の問題を一つずつ整理しながら読み進めていく。

 まず目を引くのが、執拗に繰り返される結句である。

「腐敗した豚」が空から撒かれ、廣島のあらゆるものが腐るであろう。

 幽霊にゆかりのものまでピカドンがふつとばしてしまつたのだろう。

「『それを思い出して何になるのだ。』と彼等は苦々しく云うだろう。」

                    (斉藤斎藤「予言、〈私〉」)




 この「~だろう」という結句については、既にTwitter上で吉田恭大が、小池光の連作「生存について」(『廃駅』所収)との関連を指摘している。小池の連作は、第二次世界大戦期のドイツでナチス党員であった一人の父親を一人の他者として描いた「ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せに行つたであらう」のような歌で有名であるが、この執拗な結句の繰り返しは小池のそれと確かに類似している。

 すると、次に気になるのは、旧仮名遣いと新仮名遣いの混同である。引用二首目は、旧仮名遣いなら結句が「しまつたのだらう。」とならないとおかしいし、もしこれが新仮名遣いなら「ふっとばしてしまったのだろう。」と、訂正すべき箇所が更に増える。これは他の歌にも言えることで、仮名表記の不統一さ(「廣島」に至っては旧字である)がどこか異様な空気を醸し出している。

 更に、九首目に次の歌が登場する。


 才能を疑いて去りし学なりき今日新しき心に聴く原子核論




 連作の中で語尾が「~だろう」でない三首の内の一つであるが、問題はこの歌が、


 才能を疑いて去りし学なりき今日新しき心に聴く原子核論
                     (岡井隆『斉唱』)




 という、岡井初期の作品と全く同じであるという点である(このことについても、吉川宏志が既にブログで批判的に言及している)。そして、この歌だけが明らかに文体が違い過ぎて、他の歌と比べるとどうしても浮いて見える。

 その理由の一つは、斉藤がこの連作に仕掛けた罠である匿名性である。先ほど引用を明記した際に、斉藤斎藤ではなく「斉藤斎藤」と表記したのは、何も私の私憤ではなく、元々そのように誌面に印字されているのだ。作者名を抹消記号によって打ち消すことで、どのような効果を狙ったのか。

 考えられるのは、この連作に登場する言葉を、斉藤斎藤という一人の〈私〉に結びつけることへの拒絶である。〈私〉というものが仮に、作者の単一の人格を示すとした場合、作品に使われる言葉は必ず、この〈私〉を通して語られたものであると解釈される。斉藤はこの連作で、作者が斉藤斎藤であることを抹消記号によって打ち消すことによって、誰でもない匿名の、複数存在する〈私〉から言葉を取り出し、十首連作の中で様々な主体から発せられた言葉が共存する、云わば言葉のコラージュを形成することを志向している。それ故、岡井隆の歌が原発容認の歌として、連作の中に切り貼りされて登場するのである。仮名遣いが不統一であることも、言葉のコラージュであるが故の策略なのだろう。

 だが、九首目の岡井の歌は本当に、切り貼りされた言葉として機能しているのだろうか。既に吉川をはじめとして、この歌が岡井作品と全く同じであることは多くの歌人が気付いているし、言及もされている。それは結局、この一首が既に岡井隆という〈私〉にしっかりと結びついているがために起きる現象であり、これでは斉藤がこの連作の中で、抹消記号の陰に隠れているのか、岡井隆の影に隠れているのかすら判然としなくなってしまう(ただでさえ、小池光の影に隠れているというのに!)。

 複数の〈私〉を作中に登場させることは、〈私〉というものが読者に固定化されて解釈されることを妨害する。それは〈私〉性と深く結びついた短歌に対する挑戦として受け取ることも出来るが、問題は、従来の〈私〉性を否定した先に、斉藤斎藤がどのような作品世界を作ろうとしているのかがあまりにも分かりにくいのである。仮に〈私〉を否定した先に、言語がそもそも持ち合わせているある種の匿名性を鋭敏化させ、それこそ「理性」としての言葉を追求しようとしているのであったら、この連作は失敗作である。何故ならここに登場するものはあくまで、地上の生きた人間の声でしかなく、何らかの超越論的解釈を必要とする作品はひとつとして存在しない。斉藤が抹消した〈私〉はあくまで、単一の人格としての〈私〉ではなく、あくまで〈私〉の集合、声のコラージュでしかない。

 仮に、九首目の岡井作品の引用が存在しなかったとしよう。するとこの作品に登場する〈私〉は一見すると同じような人間に見えるが、これらの声はあくまで匿名であり、そのため、声が「いつ」「どこから」発せられたものなのかが全く分からない。

 ここに来て漸く、原子力に関する内容に触れるわけだが、実を言うと、ここに存在する複数の声が、完全に原発擁護の意見であるとは言えないのである。


 アイソトープで日本全国の銭湯は原子力温泉になるだろう。




 連作の二首目にあるこの歌は、素直に読むと原発反対派の、「もしも日本の原発がこれ以上事故を起こし続けたら」という仮定に対する、ひとつの「予言」としての声である。これが「廣島」や「ピカドン」といった、敢えて反感を買いにいったような歌の間に挟まっている。だとするとこの連作は、同じ発話者、即ち〈私〉の言説が連続することを極端に避けようとした結果、言葉も勿論のことながら、その〈私〉の主義や見解なども全てバラバラにされているのではないだろうか。

 つまり、この作品には二つの拒絶がある。第一には〈私〉が単一であることへの拒絶、第二に、連作が文脈を生み出すことへの拒絶である。志向するベクトルが異なった、匿名性の高い声を力ずくで共存させることにより、前後の文脈を崩壊させ、一首ずつが奇妙に目立ってくるのだ。

 ここで思い出されるのは、「歌壇」2012年10月号に掲載された「斉藤斎藤」による論考「てにをはの読解が第一」である。斉藤はここで、現代の文語短歌は名詞に頼った読解を前提としていると批判しながら、口語短歌の読解においてはてにをはといった助辞の丁寧な読解が大切であると説いた。実際、今回の連作を読む際に、登場する名詞にその都度気を配っていたら、作品を単なる悪意の集積としか受け取れなかっただろう。だが、問題は名詞読みを否定しうる連作を提示することで、名詞の持つ意味すらを嘲笑していることにある。

 私はここまで、連作の中に書かれた「内容」がどう解釈されるべきかについて、殆んど触れなかった。それは斉藤自身、そのように読まれることを前提にこの連作を作っていないことが伝わってきたから故であるが、しかし実は、この連作にはそもそも最初から「内容」などは存在していないのである。

 何故なら彼は、〈私〉による連作の統一と、言語の意味・文脈による統一の両方を拒絶したからだ。解釈とは即ち、前後の言葉を結びつけることによって発生するものである。斉藤はここで、匿名の声を重視し過ぎたために、この連作は連作としては最早何の意味も有していないのである。それ故彼は、この連作の内容に関する倫理的責任は、如何に批判されようとも、そもそも内容が無いのだから恐らく取らなくて済むだろう。取るべき責任は別にある。

 それは、この内容を消し去った連作を、総合誌という公の場に堂々と掲載したことに対する責任だ。まず、十首だけでこうした試みをしようとした時点で、たまたま手元に来た依頼を利用して実験したかのようである。ここには短歌のひとつの手法しか存在していない。斉藤斎藤という〈私〉は、抹消記号によってその文脈の制御機能すら失い、匿名性の中に霧散して消えた。〈私〉を失った連作は、文脈を崩壊させ、詩であることを放棄した。ここに登場する言葉は、短歌ではない。八十周年特集に掲載された彼の連作は、要するに〈私〉の廃墟としての三十一音であり、一首における意味の連関すら怪しくなっている(例えば「太陽に相当したものを人類が手に入れたのだから当然だろう。」はこれ単独で読んでも無意味である)。そしてこれらの言葉は、例えば駅前で配っているような怪しげなチラシの類と何ら変わりがない。そうなってしまった理由は、彼の作品がこれだけエクリチュールを翻弄しているにもかかわらず、単なる声(=パロール)の集積であろうとしていることにあるだろう。結果的に彼のエクリチュールは、パロールを志向しながら、意味内容を放棄することによってパロールであることすらを止めているのである(言語論の用語についてここで詳しく解説することはしない)。

「予言、〈私〉」は、その実験性故にかなりの失敗を抱えている。ある意味では、手垢にまみれた言葉のみを用いてここまで無内容なものを作れるのは尊敬に値する。斉藤斎藤はこうした歌をあと290首ほど作って、フリーペーパーとして第二歌集を発行すると良いだろう。但しその際には、この連作のように「原子力」という、余計な意味を完全に排除し、コラージュの選択者としての〈私〉の安っぽさをちらつかせた今回のような不徹底な真似だけは、しないで頂きたい。


   3.引用によるまとめ

 もはや、私がとやかく言う必要も無くなっているが、今回取り上げた岩井、斉藤両名の作品は、表現の形式における〈私〉を不徹底に滲ませていることに問題がある。以下に、五十年近く前の文章を引用するが、彼らはここに書かれた形式の束縛を、どれだけ意志的に行い、拒絶しているのだろうか。もしもそれが拒絶であるならば、今回の彼らの作品は単なる日和見的な甘えであるとしか言いようがないだろう。何故ならそれは、戯れと束縛のバランスを見失った、空虚な創造物に過ぎないのである。


 もし、文学の中に声、エポス、あるいはポエジイに還元されない何かがあるとすれば、それは形式の戯れと表記的表現質料との絆を厳密に分離することによって初めて把握することができる。(同時に、その還元不可能性によって尊重されている「純文学」は、また戯れを制限し、それを束縛する恐れもあるということが分るだろう。もっとも、戯れを束縛するという欲望は抑え難いものではあるが。)
                    (ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』足立和浩・訳)

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